鎌倉朝日新聞 (6月1日号 2016年 第447号)

鎌倉朝日新聞社

歴史の場から地域活性化

ふじさわ宿交流館 開館

旧東海道の宿場町として藤沢宿の歴史を伝え、地域住民や来訪者の交流の場となる「ふじさわ宿交流館」が4月29日に開館した=写真。 藤沢宿は、江戸時代、時宗総本山・遊行寺の門前町でもあり、大山や江の島詣での人たちでにぎわった。藤沢市が2014年に制定した「街なみ百年条例」に基づき、歴史や文化を感じさせる資源や街なみを地域の共有財産として手を加えながら保全、再生し、価値を高めて次世代へ引き継ぐための拠点としていくという。 同交流館は藤沢橋交差点に近い、藤沢市西富一丁目の約5百㎡の市有地に建設された和風の2階建ての建物で、延べ床面積は約380㎡、総工費に1億5千万円をかけた。 1階の郷土資料展示室に藤沢宿周辺を再現した100分の1のジオラマがあり、解説のナレーションが流れる。当時の宿場の様子を再現したコンピューターグラフィックでは、宿場を回遊している気分を味わえる。画像は文教大の学生が制作した。展示では江戸時代の弁当箱や旅枕などが見られる。催し会場やウォークングで訪れた人の休憩場所として利用される多目的ホール、2階に有料で利用できる2つの会議室もある。 市郷土歴史課の川口剛さんは、「正月の箱根駅伝は目の前を通過するのでご観戦ください」とこの施設を学習・憩いの場としてだけでなく、交流の場として地域の活性化を目指すことを話していた。

午前9時~午後17時。月曜休館。入館無料。
問い合わせ 0466・55・2255


鎌倉朝日新聞社

石綿徳一さん

鎌倉朝日新聞社

創業2百年の酒問屋『萬屋本店』

屋号受け継ぎ、レストラン・結婚式場に

鎌倉市長谷の老舗酒問屋・萬屋本店がリニューアルしてレストランと結婚式場としてオープンし、5月8日、初回の結婚式披露宴が行われた。 萬屋本店は江戸時代の1806年に酒問屋として創業し、銘酒「白雪」の特約店となって栄え、全市に知れ渡るようになった。建物は関東大震災時に焼失したのち、旧母屋の部分は1925年(大正14年)に釘を使わない伝統工法で再建された。 2006年に店じまいしたものの、萬屋を継承する石渡徳一さんは、従来から建物の活用を思案していた。一部の賃貸やマンション建設の構想もあったが、昨年「全部を借り受けたい」と名乗りでたブライダル業界の『Daiyu』(鎌倉市扇ガ谷・宮越真里代表)に貸すことになった。 改装は昨年8月末から8カ月がかりで行われ、萬屋本店の歴史を将来に紡いでいこうと、既存の柱や梁、床の間などなるべく残した。大きなのれんをくぐって中に入ると、正面の壁には、酒問屋時代の酒・醤油・味噌などの特約代理店の板看板、金庫、酒瓶などが並び、奥がレストラン(披露会場)と中庭、その会場の隣に蔵を改装した挙式会場がある。披露宴では74人、レストランでは40人が利用できる(予約制)。 5月8日の披露宴当日、新郎の久冨裕広さんは「改装前から二人で建物を見ていて雰囲気が気に入って選んだ。決めてよかった」と話していた。

問い合わせ萬屋本店
0467・24・2040


鎌倉朝日新聞社

鎌倉みほとけ紀行(60)

建長寺 五百羅漢像

天空に聳え立つような堂々とした建長寺三門。人々を容易に招き入れてはいるようだが、その奥は深く、ここは禅の世界への入口なのだ。 「門より入るは是れ家珍にあらず」という中国宋代の諺がある。門の外や他から得た知識などは本物ではない、という意。禅の道は厳しくその宝物を外から得るのではなく自分の内を探してゆく。険しいいばらの道を突き進まねばならない。そんな重圧すら感ずる。創建当初は現在の3倍近くの大きさであったというから、その途轍もない大きさの背景にある意義は深い。 現在の三門は1775年(安永4年)の再建。開山蘭渓道隆禅師五百年遠諱の前年に上棟され、その楼上に五百羅漢像が安置されたという。 像は江戸時代の彫刻家、仏師、髙橋鳳雲の作による一大作で、この木彫り像を原型として銅造五百羅漢像が鋳造された。原型となった木彫り像はその後、身延山の山門(明治2年仮建立)楼上に安置されたが、惜しくも火災で消失したという。 513身からなる羅漢像は実に様々でユーモラスだ。雲に乗るもの、椅子に横座するもの、龍や亀に乗るもの、獅子や虎、犬、猿、象、魚などの動物もみられ、それは愉しい。500身を超える仏像であるが、どれひとつとして同型のものはないというから凄い。 「羅漢さん」と人々から親しまれるが正式には阿羅漢と呼ばれる。原語アルハトを音写したもの(ふさわしい、できるの意)で、修行を完成した人、悟りを得た人、崇拝される人という聖者を意味する。ブッダの弟子としては最高位の羅漢さんは今日も門の下をくぐる人を見守り、聖者の智慧を私たちに授けてくださっている。 この門の先には清風が吹き抜け、来る人の心に何かを授けてくださるに違いない。『覚悟をきめて自分の道を歩んでいきなさい』羅漢さんがつぶやいて下さった気がした。 銅像製。像高最大30・0㎝、最小5・4㎝。江戸時代。鎌倉市指定文化財。


鎌倉朝日新聞社

樹下のキンラン

鎌倉朝日新聞社

山中のギンラン

鎌倉つれづれ(49)

キンラン ギンラン 池田正弘

梅雨入りをひかえた鎌倉の山もいよいよ緑が深まってきた。昭和30年代の半ば位から薪炭材を伐り出さなくなった山は松林の疎林から今では典型的な常緑照葉樹林となった。 鶴岡八幡宮の大臣山もシイ、タブを主な樹種とする常緑広葉樹の極相に近くなっている。東京堂出版の鎌倉辞典には大臣山の項で『明治六年 明治天皇の臨幸御野立所 社頭で陸軍歩兵の閲兵分別式 大臣山に登臨し大隊の攻防対抗火入りの演習を天覧』と記されている。おそらく当時は松林で山頂から浄妙寺方面から押し寄せる部隊を雪ノ下で迎え撃つ演習の様子が見渡せたのであろう。その事績を記す石碑が御本殿右の大臣山登り口に立っているが今の山容からは想像できない。これは大臣山だけではなく鎌倉の山、全域について言えることだろう。 ことに戦後すぐは鎌倉でも炭焼きの指導員が養成されて炭の増産が奨励された。薪炭材として山の木々はどんどん切られていった。いまでも十二所果樹園の片隅には当時の炭焼の竃跡が残っている。薪炭材の供給源の木洩れ日が地面まで射し込む明るい里山にはシュンラン、エビネのラン科の植物が自生していた。 シュンランはマツの木の下がお気に入りで、そこでは元気に大きくよく育っていた。山の木を伐らなくなると日照不足と松くい虫でマツは枯れてシュンランも次第に弱って消えていった。エビネも直射日光には弱いが明るい樹林下でないといつの間にか消えてしまっている。今ではシュンランもエビネも鎌倉の山で自生の物を見ることはなくなった。ただ見なくなった原因は山の環境の変化のせいだけではない。園芸ブームの中で山のめぼしい植物は殆んど根こそぎにされてしまった。シュンランもエビネも例外ではない。 しかし自然の懐は深い。4月になってもエビネの花を見ることがなくなった山に5月も半ばを過ぎる頃キンランの花を見つけた。キンランは常緑広葉樹下の少し湿り気のある木陰がお気に入りで静かに咲いている。樹林下での黄色い花はまさに金色でキンランの名にふさわしい。決して群生することなく一本立ちで直立して咲いている。なかなかに気難しく去年咲いていた場所に今年もあるかというと足があるわけではなかろうに移動していることもある。 ギンランはキンランよりは少し乾き気味の場所が好きで花の色は白い。ギンランは群生はしない。が周りを見渡せば意外と近くに数株は見つけることができる。キンランもギンランもラン科キンラン属の近しい仲間である。性質は似ていてどちらも庭や植木鉢での栽培は困難である。花を切って帰ると次の年には咲かないか株が消滅している。 キンランとギンランの花を何時までも楽しむには切ってはいけない。掘って持ち帰ってもいけない。他人に咲いている場所を教えてはいけない。花の時期に一人で秘密の場所に行き、一人で静かに鑑賞する森の貴婦人である。


鎌倉朝日新聞社

津波が来たら高台へ走れ!

被災地の教訓活かす「復幸ラン」に60人

津波避難の大切さを伝え、被災地復興を願う「第1回復幸男女決定戦」が5月15日、逗子市久木の法性寺(ほっしょうじ)で開かれた=写真。同寺の山門前から本堂までの約150mの登り坂にコースが設けられ、スピードを競う男女別のレースと、自分のペースで登坂する「復幸ラン」の2部門に約60人の選手が参加した。 主催の逗子災害ボラバスターズ(勝呂勇樹代表)は同市社会福祉協議会のボランティアバスで支援活動をしてきた市民らの団体で、宮城県女川町との絆が生まれる中、4年前から同町で行われている「津波伝承復幸男」と同様に高台への避難を促すレースを逗子でも開きたいと企画。法性寺副住職がボラバスターズのメンバーであったことから同寺が会場となり、女川復幸祭実行委員会からも公認された。 「津波だ!逃げろー」のかけ声を合図に、選手らは一斉にスタート。「復幸ラン」では子どもを背負った人が1分42秒、車イスをけん引したグループは2分24秒のタイムでゴールし、避難の目安にもなる記録となった。 最速で駆け上がった「復幸男・女」は、横須賀市の武田健太さん(35)が32秒、逗子市の森川由佳さん(51)が52秒でそれぞれ1位、娘の森川怜(れ)美(み)さん(12)も2位となり「こういう催しがあればいざという時、心の準備ができる」と親子入賞に笑顔を見せていた。(K)


鎌倉朝日新聞社

加藤清正も支援呼びかけ

第13回大船まつり仮装パレード

第13回「大船まつりが」5月15日、JR大船駅前の芸術館通りや松竹通りの周辺で行われ、映画や熊本の震災支援の仮装パレード約2百人と、鎌倉女子大学中学部高等部のマーチングバンド、お囃子など合計8百人が練り歩き、沿道は大勢の見物客でにぎわった。 仮装パレードは、かつて松竹撮影所があり映画の街として知られた大船を盛り上げようと昨年から始まり、邦画・洋画・アニメなどの登場人物に扮して誰でも無料で参加できるとあって、寅さん、スターウォーズの登場人物など多彩な顔ぶれで行われた。今年は熊本の震災支援も行なおうと、高烏帽子の加藤清正の仮装グループが募金などを呼びかけた=写真。 同まつりの実行副委員長・大津定博さんは「熊本の大西一史市長から祭りのお祝いと感謝の手紙もいただき、役に立てればうれしい」と話していた。


鎌倉朝日新聞社

旧鎌倉図書館の保全に100万円寄付

図書館とともだち・鎌倉

図書館友の会の市民グループ「図書館とともだち・鎌倉」(和田安弘代表)が窓口になって集めてきた「旧鎌倉図書館保存ととも基金」を5月11日、鎌倉市に寄付した=写真。 今回の寄付は、昨年から旧鎌倉図書館の保全のために同会が行ってきたチャリティーコンサート、同図書館見学会、講演会などで集めた募金のうち100万円。ふるさと寄附金として「鎌倉市景観重要構造物等保全基金」の「旧鎌倉図書館」に組み入れられる。 松尾崇鎌倉市長は、同図書館の保全に向けた市民らの熱い思いを称え、「登録有形文化財の指定を目指すとともに、活用の仕方も熟慮していきたい」と話した。 同会では、「市内外(国外市民からも)の多数の老若男女の皆様からお預かりした寄附金を、旧鎌倉図書館保全活用を使途として市に手渡すことができてうれしい。一方で、これからも市の取組みを注意深く見守っていくことが大切」と話している。


鎌倉朝日新聞社

6月12日鎌倉で50周年記念行事

裏千家淡交会鎌倉青年部

裏千家淡交会鎌倉青年部の発会50周年記念の催しが6月12日鎌倉プリンスホテルで開かれる。 淡交会青年部は、50歳以下の裏千家茶道愛好者を会員とする文化団体で、裏千家第15代鵬雲斎大宗匠が手前の統一化を図り1950年に設置した全国組織。鎌倉青年部は1966年に設立し、茶会や研究会、文化講座、会員相互の交流会などを行っている。現在会員は約130人。 当日は、第一部は呈茶席、二部の式典・講演会では宗家や歴代部長らの紹介と、宗家の座談会が開かれ、三部で交流会を行う。「鎌倉では青年部の活動はさかんです」という同青年部の鈴木泰三部長は、記録や資料を集めて50年の歩みを辿りながら準備にあたっている。


鎌倉朝日新聞社

40周年花展に6千人

いけばな小原流鎌倉支部

北鎌倉の円覚寺でいけばな小原流鎌倉支部(茅好美支部長)の40周年記念花展が4月29、30の2日間行われ、約6千人の来場者があった=写真。 今回のテーマは「谷戸の風」。大方丈と松嶺院の2会場に一人1点ずつの合計95点が展示された。大方丈の方丈の間、大書院の間、小書院の間には厳かな雰囲気に合う「琳派絵画」のような芸術表現を生け花に導入した琳派調、南画に描かれた植物とその取り合わせをふまえる文人調、写景盛花の重厚な作品、松嶺院には色彩豊かな華やかな作品が並べられ訪れた人の目を楽しませた。


鎌倉朝日新聞社

木版画 藤本宿

谷戸の風(36)

相 撲 談 義  山 内 静 夫

相撲人気は、一向に衰える気配を見せない。今年一月の初場所で七年ぶりに日本人力士琴奨菊が優勝したことで、一気に持ち直した感がある。 日本の国技という相撲で日本人が優勝したと大騒ぎになるというのも、何とも妙な、くすぐったいような気がするが、事実この間は、モンゴル出身の力士に相撲界は完全に占領されていたのだから仕方がない。所詮は勝負の世界だから勝たなければ話にならない。 今日は夏場所の七日目(五月十四日)だが、今場所気になることが一つある。立ち合いの手つきに審判部が目を光らせていること。両手がしっかり土俵に付かないと立ち上がってからでも待ったをかける。ルールだからと言えば文句も言えないが、力士は立ち合いの一瞬に勝負のすべてを賭けているのだから気が抜けてしまうのもよく解る。この所連日一番や二番は見かける。 世の中すべて、あまり規則が優先すると、肩苦しくて面白みが失せる。時間前からきちんと両手を土俵につけて立つ力士も何人かはいて、見物する側は気持ちがいい。相撲というものは、勝負と同時に形式美を重んずる所に国技としての意味合いがあるのだから、力士がストップをかけられて、訳がわからず立ちすくんでいる姿は美しくない。 美しくないと言えば、力士の頂点に立つ横綱のひとりが勝負がついた後のダメ押しを非難されている。人間の品性というものはひょんな時に顔を出すものだが、自分よりはるかに弱い相手にあの仕草は、一瞬その時、横綱の人相が悪相に見える。


鎌倉朝日新聞社

鴎外の最初の妻=「新潮日本文学アルバム」より

文学つれづれ(140)

『舞姫』と『ファウスト』(10)

教会から出て来たグレートヒェンは、送っていきましょうかというファウストの申し出を、自立した町の娘として「送っていただかなくても、帰れます」ときっぱりと断った。ファウストはそこにますます魅力を感じる。 しかし『舞姫』(森鴎外)のエリスは貧民街にある教会の前に立って泣いていた。教会から出て来たグレートヒェンはファウストへの愛ゆえに罪を犯しても、最後には神への絶対的帰依によって救われる。しかしエリスには教会の門は閉ざされており、救いはない。 ファウストやグレートヒェンは自らの決断で行動する近代的自我をもった人間であるのに対し、豊太郎とエリスは頼り頼られるという日本的人間関係の中にしか住むことが出来ないのである。クロステル巷は鴎外の深層の意識の中では日本なのだ。 彼は料らぬ深き嘆きにあいて、前後を顧みるいとまもなく、ここに立ちて泣くにや。わが臆病なる心は憐憫の情に打ち勝たれて、余は覚えず側に倚り、「何故に泣きたもうか。ところに繋累なき外人は、かえりて(かえって)力を借し易きこともあらん」と言いかけたるが、われながらわが大胆なるにあきれたり。 教会の門前で泣く少女にいつもは内気な豊太郎は思い切って声をかける。エリスは豊太郎の善良そうな顔を見て、 「われを救いたまえ、君。わが恥なき人とならんを。母はわが彼の言葉に従わねばと、われを打ちき。父は死にたり。明日は葬らではかなわぬに、家に一銭の蓄えだになし」と涙ながらに訴える。仮にエリスが豊太郎に少しでも拒否の姿を見せたならば、二人の関係は始まらなかったであろう。 一方、一度はファウストの誘惑を拒否したもののファウストが忘れられず、グレートヒェンは自分の部屋で夢見がちにつぶやく。
―さっぱりとした小部屋
グレートヒェン(髪を編み、それを結いながら)
きょうのあの方はどなたかしら。誰かそれを教えてくれるなら、わたし何かあげてもいい。 ほんとうに男らしい方。きっといいお生まれの方にちがいない。お顔立ちを見たら、すぐそれがわかった。そうでなければ、あんなに無遠慮にお話しかけなどなさらないわ。 こうして二人は悪魔・メフィストフェレスの手助けで初めてのデートをする。
グレートヒェン わたし、びっくりしてしまいました。あんなこと、初めてなのですもの。これまでひとにとやかく言われたことは一度だってありませんでした。 だから、わたし、こう思いましたの。わたしのそぶりにふしだらなところがあって、それがお眼にとまったのかしら、これはすぐどうにでもなる娘だと、そんな気持ちをあの方に起こさせたのかしらって。白状してしまいますわ、あとで考えてみますと、わたし、あなたをいい方だと思う気持ちがさしはじめていましたのね。でもあのときのわたし、ほんとうに、自分で自分に怒っていましたの、なぜあなたにもっと怒ってさしあげなかったのかしらって。 ファウストは純真で可愛らしいグレートヒェンにますます魅かれていく。続けてアスターの花ビラによる有名な花占いの場面となる。グレートヒェンは最後の一枚が「愛している」だったので「あなた!わたし、心から愛してよ」とファウストに自分から接吻する。 おそらく現実のエリーゼも自らの意志で鴎外を愛したに違いない。だから鴎外を追って日本まで来たのだし、裏切られたと知ると自らの理性で悲しみや悔しさに耐え、おだやかにドイツに帰っていったのである。エリーゼはグレートヒェンでありえても『舞姫』のエリスではない。 (神奈川歯科大名誉教授)


鎌倉朝日新聞社

【寄稿】「旧鎌倉図書館、御成小の保存を」

吉田剛市さん講演会 図書館とともだち・鎌倉  和田安弘

西洋建築史研究の第一人者で横浜国立大学名誉教授の吉田剛市さんによる講演会が4月23日に開催されました=写真。主催は図書館とともだち・鎌倉と御成小「講堂」の保全活用をめざす会の2団体で、それぞれ旧鎌倉図書館、御成小旧講堂の保全運動に取り組んできた団体です。 講師の吉田剛市さんは神奈川県内の建物の調査を数多く手がけ、鎌倉市内の近代建築物についても長年、調査に取り組んでこられた方です。今回の講演では、昨年、市が保存を決定した旧鎌倉図書館と御成小旧講堂を中心に、ご自身が調査に携わったときの写真を壇上に映しながら、それぞれの建物の特徴や歴史・文化的価値をわかりやすくお話しいただきました。 市内の近代建築物というと外から来た著名人による邸宅が注目されがちだが、鎌倉の地の人が建てたものを遺産としてもっと大事にすべきとしたうえで、二つの建物の工事関係者にも話が及び、少なくとも御成小学校旧講堂と旧校舎は棟札を見ると昭和戦前期の主だった鎌倉大工が総出で建築に当たったことが分かるというお話でした。 そして「建物は50年、100年たってこそ建物になる。古いからといって安易に取り壊すのは犯罪に等しい」という言葉で講演を締めくくられました。


鎌倉朝日新聞社

【寄稿】「地域再生」をテーマに学生たちと交流

NPO「命・地球」常任理事 中村知二

NPO『命・地球』は、「命と心」「地球環境と平和の大切さ」をテーマに、癌や白血病などで健康を害し、進学や就職などが困難な方々が社会復帰するのを支援し、病気と対決する姿勢と諦めない心をサポートする団体です。 4月30日に鎌倉市御成町の立正大学のカフェで「地域再生」をテーマに学生たちと交流しました=写真。鎌倉のNPOの歴史や食の大切さ、ビジネスと英語の切れない関係、特別支援学校の話などに関して話し合い、学生たちから「いろいろな角度から地域再生の経験談を聞かせてもらい、私たちも鎌倉の地域再生の活動をしているので、共感や勉強になった」との声ももらいました。 我々は、社会復帰を果たした方々の実体験などを含めた講演会や交流会で「被支援者から支援者へと循環(レカレント)しながら、回復(レジリエンス)する」ことで、「社会貢献できる人材を育成し、 鎌倉から世界へと発信する」ことを目指し協同しています。 今後は「京都大学iPS(再生医療)研究所」の先生をお招きし、市民向け講演会などを立案します。ご支援とご協力を心より期待しています。

問い合わせは「命・地球」 hirokssr@jewel.ocn.ne.jp


体育功労者、優秀選手を表彰

鎌倉市体協が選手権優勝者など

鎌倉市体育協会(山口宇宙会長・31団体)は平成27年度に活躍した優秀選手18人、優秀団体3、各団体が推薦する功労者9人を5月16日鎌倉武道館で表彰した。カッコ内)推薦団体。敬称略。

【体育功労】
本多啓一(水泳)京谷東(柔道)岡井政義(テニス)池田一紀(スキー)河合英利(サッカー)岡三智子(少林寺拳法)若林ヒロ子(ソフトボール)朝香良子(太極拳)大西伸明(ボウリング)

【優秀選手】
伊藤槙紀 (卓球)坪井晴人・埴生厚秀・緒形有紀・佐々木雅広・田村章俉・田村亮輔・野井珠稀(水泳)市川康裕(柔道)鈴木優美・冨澤采加・鈴木秋香(ソフトテニス)前田忠昭・安福哲男(テニス)宇野早苗(バドミントン) 三輪藍子(スキー)鈴木典子(太極拳)藤原聖佳(ボウリング)

【優秀団体】
鎌倉宮カントリーテニスクラブ・三菱電機テニス日本リーグチーム・鎌倉市役所サッカー部


終の棲み家を考える(26)

坪いくらの落とし穴

家の建築費はいくらが妥当なのか考えてみましょう。 安くする為の方法は沢山あります。例えば、屋根の防水紙を薄いものにする。屋根の庇を無くす。外壁を薄いサイディングにする。外壁のモルタルを1回塗りにし、塗料も安価な物で1回塗りにする。1枚ガラスのサッシで戸袋は付けず、小さな物で数を少なくする。基礎の外側にモルタルを塗らない。外部だけでもざっとこの位できます。 内部にいたっては和室を造らない。廻縁・巾木を付けない。床の仕上げは薄い単板の合板。壁・天井の仕上げは全てビニールクロス。断熱材は薄い形だけの物。照明器具のスイッチやコンセントは最低限の箇所。設備機器や照明は全て指定されている。 坪単価を安く見せる為にこんな風にして建築費を抑えているのです。内部・外部に依頼者が希望を言うと必ず追加・変更費用が掛かる仕組みになっているのです。家を安く手に入れたい気持ちは良く分かりますが、雨漏れや家の寿命を短くするような方法、また薄っぺらで直ぐ飽きてしまうような家では幸せな気持ちになれません。昔から物の例えに『安かろう悪かろう』と言われており、家はその典型だと思います。家づくりに魔法など有りません、普通の値段でより良い家を手にしてください。

日向建設 鎌倉市大船1―15―3
0467・47・5454


鎌倉朝日新聞社

「ひと」 鎌倉アカデミア70周年記念祭で思い出を語る

服部博明(はっとりひろあき)さん

「寺子屋大学」とも呼ばれた鎌倉アカデミアの創立70周年記念祭(鎌倉アカデミア創立70周年記念祭実行委員会主催)が6月4日、校舎があった材木座の光明寺で行われる。第一期生で実行委員の一員。「鎌倉アカデミアを伝える会」の会員でもあり、長年アカデミアの資料整理・収集に当たってきた。 1928年、現在の京都府・舞鶴で海軍軍人の長男として生まれた。42年4月、旧制川崎市立橘中学に入学。卒業時、進学先に迷った折、担任から「鎌倉大学校入学案内」を手渡され、勧められた。 アカデミアは終戦翌年の46年5月、鎌倉文化会が母体となって光明寺を仮校舎として開校。当時は「鎌倉大学校」と呼ばれ、「文学科」「産業科」「演劇科」の3科でスタート。産業科一期生として入学。三上次男教授の「考古学研究会」に興味を持ち入部。稲村ケ崎、姥ケ谷古墳群発掘調査に参加する。 2年後に校舎が横浜市戸塚区小菅ヶ谷の海軍燃料厰跡(現、栄区)に移った。「鎌倉アカデミア」と改称され、「映画科」が創設された。移転を機に文学科に転科。三上教授の授業のほか、平野謙、片岡良一教授の授業は欠かさず受講。アカデミアは50年9月、財政難のため4年半でその歴史にピリオドを打った。 同年3月に卒業、翌年川崎市役所に就職。税務課勤務を命ぜられる。定年退職するまでの38年間税務畑一筋を歩む。役所時代を通じ、三上教授が北鎌倉の自宅を開放した私塾「白水会」にも呼ばれ陶器や歴史を学ぶ。「先生は誰にも真正面から接し慈しまれた」。 三上教授が87年に死去すると、その膨大な蔵書や資料整理に従事、遺言により出光美術館に寄贈される。その後、鎌倉市中央図書館に寄せられたアカデミア関係の資料整理・収集に取り組む。2006年には「鎌倉アカデミア落穂集」を編集、発行した。  記念祭では講演会や座談会、展示会など多彩な催しが行われる。自らは、三上教授と白水会のエピソードを中心に語る。「アカデミア、三上先生との出会いが自分の人生を支えてくれた」。資料整理もほぼ終わり、一区切りついたところ。三上教授から学んだ中国の書家・董琪(とうしょう)昌(き)の「足老」(悔いを覚えない老境を過ごす)」の言葉が常に頭をよぎる。「鎌倉市中央図書館に収められた資料が、今後どう活かされるのかを見届けたい」。最近の心境である。
葉山町で妻と暮らす。87歳。
 文・写真 浅田勁


鎌倉朝日新聞社

健康百科通信(86)

緑内障検診のすすめ
  日本眼科学会認定眼科専門医 福田 匠

日本人における視覚障害原因及び中途失明原因の第一位は緑内障です。また、日本の疫学調査によると、40歳以上の20人に1人は緑内障で、なんと約8割の方は、自分が緑内障であることに気づいていませんでした。 眼球の中には房水という水があり、外向きに水圧(眼圧)がかかっています。緑内障では、眼圧が視神経を圧迫障害し視野が欠けますが、その速度は遅く気づいたときには進行してしまっていることもあります。 通常は両眼でみているので、一方に視野欠損が拡がっても、もう片方の眼でカバーしてしまうので気づきにくいです。緑内障で一度欠けた視野は二度と戻りません。そのため、早期発見・早期治療が大事です。 緑内障の治療は、点眼薬による治療が主です。毎日忘れずに点眼することで、眼圧が低く安定し視野欠損の進行を抑えられます。 40歳以上で、眼科にて緑内障検診を一度も受けたことがない方は、ぜひ近隣の眼科を受診することをお勧めいたします。

福田眼科 〒247―0072鎌倉市岡本2―1―10
0467・38・8603


鎌倉朝日新聞社

大船移転直前の記念写真=鎌倉市中央図書館蔵

鎌倉朝日新聞社

ありし日を証すのは記念碑のみ=開山堂左横

鎌倉朝日新聞社

開山堂正面。右手の渡り廊下の先が本堂

鎌倉朝日新聞社

開山堂の部屋割(演劇科1期廣澤榮氏作)

鎌倉朝日新聞社

シローおじさん

鎌倉朝日新聞社

戦後の日本を象徴する学び舎が鎌倉にあった-鎌倉アカデミア

かつて鎌倉には、民主国家日本を体現するような大学校があった。その“寺子屋大学”は戦後間もない日本に突然現れ、貴重な人的遺産を残して、わずか4年半で姿を消した。鎌倉アカデミア創立70周年記念祭実行委員会委員(鎌倉市中央図書館近代史資料室勤務)の平田恵美さんにうかがった。

一流の先生と生徒が奇跡の出会いを

そもそも「鎌倉アカデミア」とは。

戦争が終わって、これからどう生きてゆこうかという若い人達がいた。一方で、知識人、大学の先生方や戦時中には自由にものが言えなかった優秀な先生方が幸運な出会いの場を持ったということです。しかも、出会った場所が鎌倉の、海辺のお寺だった。 先生方の顔ぶれは、三枝博音(哲学者、科学史家)、菅井準一(自然科学史)、林達夫(評論家)、中村光夫(劇作家、小説家)、高見順(小説家、詩人)、村山知義(劇作家、演出家)、吉野秀雄(歌人)、三上次男(考古学者)、服部之總(歴史学者)、宇野重吉(俳優、演出家)、野田高梧(映画脚本家)、久板栄二郎(劇作家)と今もその名が語り継がれているような方々が揃っていました。そしてこの学校に在籍した学生には小説家山口瞳や作曲家いずみたく、放送作家・司会の前田武彦をはじめ戦後日本で活躍した人たちが大勢いました。両者の出会いの場を作ったのが鎌倉アカデミアでした。

どのような経緯からできたのでしょうか。

別荘地として発展した鎌倉には広い視野で物を考える知識人が多く住んでいました。鎌倉文士という呼称があるように文人も多く住んでいましたが経済人も多く住み「鎌倉同人会」などの集い語らう場も戦前からありました。そのような中から、大学を作ろうというとてつもない話が盛り上がってきました。 第二次大戦での空襲の被害がなく、街の前面には海があり、緑も豊かで、人材にも恵まれた場所でした。 大学創立を伝える記事には
 鎌倉大學学創立
  男女共學でゆく
アメリカ式男女共学の大學が鎌倉にできる。名も「鎌倉大學」と呼称し産業科、文學科、演劇科の三科を置き、本科五年制、専門部三年制である。鎌倉山夕日ケ丘に校舎が建設されるまで材木座光明寺地内の仮校舎で授業を開始するが入學申込は四月十五日まで―(昭和21年3月17日付神奈川新聞) とあります。 1946年(昭和21年5月6日に、大学は開校しました。しかし同年4月18日付の神奈川県公報には「私立鎌倉大学校ヲ設置スルノ件昭和二十一年三月三十一日認可セリ」とあります。大学ではなく大学校でした。

学生数は。

開校時の学生数は、産業科が105人、演劇科が75人、文学科が128人です。映画科は開設時135人でした。

その後に映画科が作られていますが。

鎌倉アカデミアは開校3年目に大船に移転しています。その移転を機に「映画科」が設けられました。当時すでに人気があった映画に関する学科を作ったら学生が増えるのでは、と考えたかと思います。松竹大船撮影所が近くにあり抜群のロケーションだったのでは。映画科長を務めた重宗和伸さん(映画監督)は戦前から映画を撮っていた人ですし、女優原節子さんの出演で数々の名作を残した小津映画の脚本を担当した田高梧さんが招かれて教壇に立ちました。

光明寺の寺房を仮学舎に開校

どのような経緯でお寺に間借りを。

大学を作ろうと話し合いをされていた人たちの中には長谷寺や本覚寺など寺院の関係者もいました。そのような中で材木座の光明寺が貸してもらえることになりました。 主に本堂左手の開山堂を間仕切りして教室とし、一部の授業は本堂で行っていたようです。ところが開校2年目には寺院の目的外使用が法に触れるということから移転することになりました。 1948年(昭和23年)4月には横浜市戸塚区の海軍燃料廠跡(現栄区役所敷地)に移転しました。

校名の変遷は。

開校時には当然大学の用件を充たしていませんでしたので、正式には「大学校」でした。しか大船校舎移転時にも大学の用件を充たしていませんでしたので校名を「鎌倉アカデミア」と改名しました。

学内の雰囲気は。

先生と生徒がすごく親密な関係でした。先生の家まで押しかけていって話を聞いたり、先生側もまだ食べ物が十分でない時代であるにもかかわらず奥さんが食べ物を出してくれたそうです。 優秀で個性的な生徒が多く、先生の教える意欲も高まり、先生同士も刺戟しあったといいます。

どうしてわずか4年で閉校に。

経営的な困難、学校経営の行き詰まりだったと思います。開校した年の秋から校長を務めていた三枝先生は色々な方面に経済的支援の働きかけをしました。しかしアカデミアは「赤い」という風評からか皆さんお金を出すことに二の足を踏んだようです。 1950年(昭和25年)9月10日に閉校しました。 先生方は学生の行く末を考えて転校の面倒をきちんと見ましたし、卒業間近の人には証書を発行しました。この学校に在籍した人たちは、先生に大事にされたという実感を強く持っています。わずか4年半しかなかった学校に在籍したことを隠さず語る人々の学校に対する誇りは、十分に理解できます。

どうもありがとうございました。

鎌倉市中央図書館
0467・25・2611

鎌倉アカデミア創立70周年記念祭

日時 6月4日午前10時~
場所 材木座光明寺
午前10時~ 書院
*ゆかりの方々よりご挨拶
*講演と座談会:「学びの原点をたずねてー鎌倉アカデミア」
 寺崎昌男氏(教育学者)
 山崎雅子氏(立教大学)
 渕上皓一朗氏(岩波書店)
*思い出の授業を再現
「演劇科教授 青江舜二郎先生」若林一郎氏(演劇科2期生/劇作家)
「考古学者三上次男先生」服部博明氏(文学科1期生)佐々木達夫氏(三上先生私塾白水会会員/考古学者)
*座談会「鎌倉アカデミアから未来の学びの種を撒く」ルートカルチャー(有志)/企画制作団体chameleon/吉野家ほか
午後2時~ 本堂
*ご法要 声明念仏
*人形劇団「ひとみ座」公演
シローおじさんのひとり芝居「花咲かじいさん」
くるしまたけひこ人形劇場「トラの子ウーちゃん」
*朗読
*コーラス 鎌倉アカデミア学生歌ほか 鎌倉市民混声合唱団
午前10時~午後5時30分 開山堂
*鎌倉アカデミア回想展&劇人形作家片岡昌作品展示

展示ミニ特集 創立70周年鎌倉アカデミア

~7月10日鎌倉文学館
アカデミア関係者のノートや発行雑誌、書籍を展示。「かって熱い時代があったこと、新しい時代を創ってゆこうという熱意を感じてください」(小田島一弘副館長)。


鎌倉朝日新聞社

新刊書 『声の文化史―音声読書としての朗読』

原 良枝 著

始めに、朗読をするときの「声」の果たす役割や発声のメカニズム、「読む」ということの意味、朗読を「聞く」となぜ気持ちがいいのかを考察する。 さらに、声の芸能の系譜をたどり、朗読の誕生、教育との関連を述べ、脳科学や教育心理学の領域での実験結果をもとに、朗読の効用を提示する。 著者は小学生の頃、ラジオ番組で詩の朗読を聞いて、声の素晴らしさ、読むことへの関心が芽生え、アナウンサーになった。その後、朗読についての疑問が尽きず、50歳を前にして朗読を研究することを決断し、早稲田大学大学院社会科学研究科に入学。朗読研究の博士論文を仕上げた。本著はその論文に加筆し、編集したもの。

4212円、成文社刊 03・3203・9201


鎌倉朝日新聞社

新刊書 『日本は近代思想をやり直せ』

平井嵩 著

鎌倉市岡本在住の平井嵩さんが3作目の著書『日本は近代思想をやり直せ』を出版した。 平井さんは新聞『鎌倉評論』を発行し、市民の目線から市や県の行政、議会の動向を解説し、市民に地方政治について考える機会を提供している。 著書では、日本の近代思想全般を評論し、世界が混迷し、時代が転換しようとする今日、日本はこれまでのように他国追随型の思考を反省し、独自の思想を形成しなければならないと説く。 平井さんは「そのために鎌倉を新しい知の発信地にしたい」と話す。

1728円、図書新聞刊 03・3234・347


鎌倉朝日新聞社

新刊書 『畑の一生』

向田 智也 著

鎌倉市坂ノ下在住の向田智也さんの絵本『畑の一年』が発行された。 里山の一年をテーマにした『田んぼの一年』、『雑木林の一年』に続く、第3弾で、今回のテーマは「畑」。 絵本と生き物図鑑、畑の雑学事典で構成し、畑での一年を通して作物や植物の成長、生き物を紹介し、人の文化や生活と共存する身近な自然を表現している。 著者はNPO法人「鎌倉広町の森市民の会」理事。同団体が保全活動している鎌倉広町緑地で里山風景の復元活動に参加している。

1512円、小学館刊 03・3230・5451


鎌倉朝日新聞社

いざっ!!鎌倉てらこや(25)

「本気」を積み重ねる―みんなで朗読10周年記念特別朗読会  小木曽 駿

柔らかな陽光のもと、薫風に乗って、声が漏れ聞こえてくる。 「あ・え・い・う・え・お・あ・お!!」。 子ども・保護者・大学生が一緒になって行う発声練習から「みんなで朗読」は始まる。円覚寺で毎月繰り広げられてきた光景だ。2006年に始まった「みんなで朗読」は、今年で10周年を迎えた。そこで5月8日に記念の「特別朗読会」が実施された=写真。 まず特筆すべきは、臨済宗円覚寺派管長・横田南嶺老師に特別法話をいただいたことだ。老師は坂村真民さんの詩の朗読を交えて、「念ずれば 花ひらく」という言葉を紹介された。この言葉には、若くして夫を亡くした真民さんのお母様の、「5人の幼い子どもたちを、何としても育てていく」という、強い想いが籠められているという。強い想いを持ち、「本気」で取り組み続ければ、自然と大輪を咲かせられることを説かれた。 講師の幸田弘子・中里貴子両先生の本物の朗読の披露もあった。それに加え、活動に参加されてきた皆さんに朗読を発表してもらった。 参加者の朗読にもたくさんの「本気」がきらきらと溢れていた。中でも小学校高学年、中学生となった子どもたちが、多くの聴衆の前で堂々と発表していた姿が印象深い。初参加の際、自己紹介すらできず、泣き出してしまう子もいた。改めて振り返れば、10年という月日は、朗読に「本気」で取り組み続けてきた、積み重ねそのもののように思う。 「本気」は、鎌倉てらこや活動当初から、最も大切にしてきた大切なテーマである。「みんなで朗読」を、10年に渡り続けてこられたのも、関わってきた皆様の「本気」を頂戴してきたからだ。その有り難さに感謝申し上げるとともに、これからも初心を忘れず、より大きな花をひらかせていけるよう、みんなで、朗読に「本気」で向き合い続けていきたい。

鎌倉てらこや事務局
0467-84-9746(平日13~17時)
http://kamakura-terakoya.net/


鎌倉朝日新聞社

鎌倉の失われた風景(25)

笹目ケ谷・星野天知旧居 島本 千也

笹目ヶ谷の中ほどに星野天知の山荘(暗光庵)があった。天知はマルチな才能をもった人物であった。日本橋に在った実家の砂糖商は弟に譲り、明治女学校に務める教育者、『女学雑誌』のち『文學界』の編集人、柳生心眼流の宗家、書家、山林経営者としても活躍した。 母が雪ノ下の本陣大石家の出であったことから、大石家内に鎌倉の別宅を所有していた。明治26年8月、笹目の谷戸の奥に山荘をつくりそこへ住むようになった。鎌倉がようやく別荘地としてひらけてきた頃で、谷戸の入り口近くに島津家の別荘があるだけだった。 天知の山荘には多くの歴史上の人物が訪れている。明治女学校の生徒であった星良子(相馬黒光)、『文學界』の北村透谷・島崎藤村、鎌倉在住の海江田信義、津田仙、九鬼隆一ほか、柳田国男や高橋是清などである。 天知の自伝『黙歩七十年』の中には明治史に名を残した多くの人物の名やエピソードが記されている。鎌倉女学院の初代教頭は天知であった。 高浜虚子の二女、立子は天知の息子吉人へ嫁ぎ笹目ヶ谷に住む。立子の住居となってからここでたびたび句会が開かれた。

木犀や明治の文化この谷戸に

昭和18年10月12日、鎌倉笹目・星野宅、二百二十日会にて。 天知の山荘は平成10年頃失われ、跡地は数件の住宅に分譲された。記憶をとどめるものは虚子の俳句のみである。平成23年、その一画に「文學界 星野天知 星野立子の顕彰碑」が建てられた=写真。碑文には次のように記されている。 「ここ笹目は、明治の教育・文学に寄与した星野天知とその息子。星野吉人に嫁いた女流俳人 星野立子が住んだ場所である。星野天知は、明治女学校で教鞭をとりつつ女性文学誌「女学生」誌の主筆となり、後に「文學界」編集人として北村透谷 島崎藤村 樋口一葉など明治の文壇を飾る作家たちを支えた。(後略)」 各地に無くもがなの石碑が多い。しかし、この石碑は鎌倉と『文學界』の作家たちの関わりを示す原点で、明治の記憶を留める場所である。鎌倉にとって忘れてはならない大切な記念碑である。


鎌倉朝日新聞社

アジサイ

鎌倉市倫理法人会 通信 「いざ、鎌倉!」(38)

歴史と伝統のある鎌倉を梁山泊に!
  心の栞…いい言葉との出会い

一年365日、毎年同じように季節は巡り、月日は流れていきます。6月は一年の前半の締めくくり。夢中で歩いた半年を振り返る月でもあるように思えます。 「あっという間だね…」「年々、月日の流れが速く感じるね…」そんな会話を交わしながら、今一度足元を確かめてみたくなりませんか?同じように過ぎていく毎日でも、降りかかる困難は様々。思いもよらない出来事に巻き込まれたり、家族が病気になったりと、予期せぬ困難ほど心が折れそうになるものです。 先日ある雑誌の中で見つけた素敵な言葉をご紹介しましょう。 『生きることは一筋縄ではいかない。予期せぬことも起こる。くじけそうになって、強い意志が必要になる時だってある。そんな時、【大切なものを手放さないでいよう。それはいつかきっと、私の魔法になる】と口にしてみると、よしっ、と新しいエネルギーが生まれる』。この言葉を何度も何度もかみしめていると、不思議と力が湧いてきます。言葉が護符となって私を守ってくれるように感じます。 鎌倉市倫理法人会では、毎週火曜日に「経営者モーニングセミナー」を開催しています。澄みきった心を持ち続けるため、実行すれば誰でもすなおに幸せになれる日常生活の標語(17箇条)を学んでいます。素晴らしい言葉の力を感じていただきたいと思います。どなたでも自由に参加できますのでお気軽にお越しくださいね。参加無料。

◆第3回東日本支援チャリティコンサート「あの日を忘れない。被災地に心を寄せる感動のコンサート」を今年も開催!
6月11日(土) 13時開場、13時半開演、鎌倉女子大学二階堂学舎。
タンゴ歌手・香坂優を迎えてのコンサートをはじめ、見ごたえ聴きごたえ盛り沢山の内容です。奇跡の一本松ヴァイオリンの演奏(皆川真里奈)もお楽しみください!
2800円、前売2500円、中学生以下千円。

申込み・問合せ 0467・22・8537(ガソリンスタンド・マツヤ)


鎌倉朝日新聞社

福島県飯舘村ドキュメンタリー上映会

自助・共助を考えよう

東日本大震災10日目から医療支援で宮城県南三陸町へ、そして今回熊本地震では益城町で4月27日から5日間ほど診療した鎌倉のさかい内科胃腸科クリニック・酒井太郎さんは、 「東日本大震災の時は津波で町が壊滅的被害を受けたが、今回は津波がなくてもこれだけ被災した現実を目の当たりにして自分たちができる事に備えていくことの大切さを再認識した」と話す。 酒井医師らが、自分たちでできる自助・共助を考えようと3カ月連続で行っているチャリティー映画祭「3・11を忘れないALL鎌倉映画祭」の3回目が6月11日にある。「『飯舘村の母ちゃんたち 土とともに』=写真=にぜひご来場を」と呼びかける。
大人千5百円、学生千円。

問い合わせ鎌倉に震災銭湯をつくる会 0467・47・1368


鎌倉朝日新聞社

季節の心

梅雨空を仰いで  佐伯 仁

梅の実が梅雨を呼ぶ

日本には雨季・乾季がなく、四季を通じ雨は降ります。春は梅霖、夏は白雨、秋は秋霖、冬は時雨など季語が多彩なのは、雨の多さが分かります。 この背景には四面を海に囲まれ田日本列島の地形と春秋に吹く季節風の影響によります。 その海から蒸発する湿気が梅雨を生みます。その「梅雨」の語源は梅の実が「つはる(熟す)が「つゆ」になったとか、また物がカビる「つひゆ(そこなわれる)」に由来するとか諸説あります。古くは梅雨より「さみだれ」が使かわれました。「さみだれ」のサは皐月(さつき)、「みだれ」は水垂で、この雨は田植え仕事を促すシグナルです。 一方、雨を眺め暮らす日々から“長雨”が“眺め”へ転じ、日本独特のウエットな情感も育み、さらに『広辞苑』の「ながめ」の項には「物想いにふける意」という解説もみられます。 情緒とは別に多雨は味噌、醤油、納豆、酒、漬物など発酵食品を生み海外でも人気です。 世界の舌も満足させる味を支えるのは、まさに長雨そのもの‥梅雨こそ陰気な暗さだけでなく、暮らしを潤す知恵と心も届けてくれる季節の使者といえましょう。


鎌倉朝日新聞社

鎌倉に新名所続々…

自然で安心の産院新設 湘南鎌倉バースクリニック

湘南鎌倉総合病院(鎌倉市岡本、塩野正喜院長)が5月1日、新たな産科拠点「湘南鎌倉バースクリニック」を開院させた=写真。 場所は湘南モノレール「富士見町駅」から徒歩3分の地上4階、地下一階建ての建物で、延べ床面積は約3500㎡。病室19床は全て個室。家族の宿泊もできるなどリラックスして出産できる環境を提供する。今後は、自然分娩や産後入院などローリスクなお産をこちらに移管し、ハイリスクなお産は従来どおり湘南鎌倉総合病院で受ける体制で、両施設で連携をとっていく。 4月24日の開所式には同院や工事関係者のほか松尾崇鎌倉市長ら来賓が出席、内覧会にも大勢が訪れた。日下剛院長は「お産は家族の一大イベントなので、妊婦さんの体だけでなく感情の豊かさにも配慮した、サービスを提供していきたい」と意気込みを語った。

問い合わせ 0467・52・5547


鎌倉朝日新聞社

観光や街歩きに〝快適なトイレ″

鎌倉時代の遺構展示も

鎌倉・若宮大路の三の鳥居寄りの道沿いにM'sArk KAMAKURAと標示されたビルができ、4月中旬オープンした 鎌倉で創業90余年のそば処「峰本」が日ごろの感謝と、地元への恩返しとして観光都市・鎌倉の一助となればという思いで建設。 1階エレベーターホール前に、建設の際に行われた遺跡発掘調査で出土した鎌倉時代の遺構を原位置再生保存し、無料展示した。工事期間に1年半を要したという。 代表の長戸芳郎さん=写真=は「観光都市でありながら、ゴミの捨て場所もなくて人にやさしくないと感じたのがきっかけ」と、観光の際に困らないように2階に公共トイレを設置した。〝清潔感溢れる快適なトイレ″として着替えや赤ちゃんのおむつ替えもできるゆったりしたスペースで、利用料100円。鎌倉では民間運営による有料トイレは初の試みだが、休日など利用者が多く、喜んでもらっているという。 《東日本大震災 追悼・復興祈願祭》など《鎌倉の祈り》を製作したビデオ上映のほか、 外国人観光客が安心して利用できる鎌倉の観光情報の提供、フリーWi-Fiの提供もしている。 災害時には避難場所としても利用できる。 ビル名の〝Ark″には鎌倉〝LOVE″の仲間で創ったみんなの《方舟・はこぶね》という意味が込められている。

鎌倉市雪ノ下1―12―5
0467・81・4410


鎌倉朝日新聞社

はり絵画家・内田さん(93)と作品

鎌倉朝日新聞社

芸術文化発信の拠点に

鎌倉こころのギャラリー館

鎌倉市長谷の江ノ電長谷駅近くにオープンした「鎌倉こころのギャラリー館」はアートの展示室と住まいの展示室が共存する空間。人々が出会い、響き合うことで鎌倉のエネルギーを発展させようと新設された=写真。 弐番館1階ははり絵画家・内田正泰氏(93)の常設展示で、四季折々の作品が展覧できる。 内田さんは成人学校の講師で作品づくりを担当し、古新聞を破いたとき、その破り口にあたたかさを感じ、この線で日本の情緒を表わせたらと思ったのがきっかけではり絵をはじめ、以来50年間、色紙(洋紙)をちぎって貼り重ねていく独自の技法で「日本の原風景」をテーマとした作品を数多く発表している。内田さんは、「心に響く瞬間を絵に残していこうと思って、気がついたらおじいさんになっていた」と話す。 3階は自然と夢、住まいの展示室で、建築の模型の展示や建築相談などを行っている。 「夢ギャラリー」と呼ばれる壱番館は1、2階が貸しギャラリーとなっていて、絵画や写真などの展示、会議や教室として使用できる。 6月10日から26日まで「ジュジュタケシ個展2016鎌倉」の題の展示が行われる。入場無料。 同ギャラリー館では「多くの人に利用してもらい、鎌倉の芸術・文化を発信していきたい」と話している。

問い合わせ長谷壱番館 0467・23・5722


鎌倉朝日新聞社

鎌倉ハム富岡商会新工場完成

体験教室や資料館併設

明治33年(1900年)の創業以来、鎌倉の地で伝統製法による製造を続けている「鎌倉ハム富岡商会」本社工場の建て替えが行われ、2月に新工場が竣功した。 鎌倉市岩瀬961の県道21号線沿いの敷地面積6,115㎡に建てられた3階建ての建物で、延床面積は従来の約1・8倍の6,721㎡。歴史資料館などが新設され、冷蔵などの設備の規模を拡大した。 「知る!見る!体験する!」を通してハムの魅力を伝えようと、6月1日に歴史資料館や、ハムの布巻きの手作業など生産現場を一部公開する工場見学、工場直営ショップがオープンする。作る楽しみを知ってもらおうと、7月21日からは「ソーセージ手作り体験教室」も行う。有料。要予約。 邉見裕之社長は「鎌倉の銘品として長年培ってきた歴史を伝え、よりいっそう安全・安心でおいしいハムづくりを目指して精進していきたい」と話していた=写真。

問い合わせ 0467・44・2186


鎌倉朝日新聞社

鎌倉花めぐり(142)

鮮やかな朱色のザクロの花

初夏の日差しに鮮やかな朱色のザクロの花がよく映える=写真は宝戒寺。 ごつごつした褐色の幹にコブの様な突起があるものもある。 6、7月ごろ枝先に朱色の丸いつぼみをつけ、それはやがて長さ3、4㌢の筒鐘形となって、厚みのある朱色のがく片が6裂して、中から花弁が顔を出す。花弁は6枚で柔らかくてしわがある。 ザクロ科の落葉小高木で、イランを中心に西南アジアに原生し、日本は平安時代以前に渡来したという。 今年の5月中旬、東京都の親水公園で見た樹にはつぼみも花もみごとについていたが、宝戒寺の花はまばらで、「花が沢山つくのは1年おきかしら」と寺の人は話していた。
花言葉は「優美」。

小林千穂 文
松原省吾 写真



鎌倉朝日新聞社

鎌倉年中行事

6月

▼葛原岡神社例大祭 6月3日11時神前祭。4日18時宵宮祭、5日13時由比ガ浜方面へ神輿渡御。日野俊基卿の慰霊。
▼五所神社例祭 11日宵宮祭、12日10時例大祭のち神幸祭、15時頃海上渡御。14日10時三つ目神楽。
▼ほたるまつり 12日~1週間程度、鶴岡八幡宮。
▼瑞賢忌 16日10時、建長寺。江戸初期の豪商で治水工事や航路開発の功労者河村瑞賢の法要。
▼大祓式・古神札焼納祭 30日鶴岡八幡宮。
▼海開き 6月24日~8月28日逗子海岸。7月1日~8月31日鎌倉の海水浴場。7月2日~8月28日葉山の海水浴場。


プロムナード

「いざ、鎌倉」~歴史と文化が描くモザイク画のまちへ~。これをタイトルとする形で、先日、鎌倉が「日本遺産」に認定されました。▼日本遺産は、平成27年度から始まった国の制度で、地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリーを文化庁が審査し、認定を行います。その申請において、鎌倉は「武家の歴史」だけでなく、鎌倉ならではの自然や文化、芸術にも触れたストーリーを構成しました▼私は先日、「音」から鎌倉を感じることに着眼点を置いている方のお話に触れる機会がありました▼「鎌倉らしい【音】」。様々にありそうですが、それを楽しむ静寂や、余裕のある空間もまた、鎌倉ならではの魅力の一つといえそうです。 (N)


Contact Us

〒248-0007 鎌倉市大町2丁目8番13号 2-202
0467-24-8553
0467-23-1205

FOLLOW US

short